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三浦つとむ「民主主義ということ」(初出1960年)

民主主義は多数決と同じではない

 民主主義ということばは、君主主義に対する政治の上のことばであった。国王や天皇など、君主が国の主人なのではなくて、国民こそが国の主人なのだという考えかたであった。したがって、民主主義の政治は、国民の意思にもとづいて行われなければならないばかりでなく、国民の利益のため、国民の幸福のために行われるものでなければならないわけである。

 かたちの上では、国民の意思にもとづいて議員がえらばれていても、この議員は国民を裏切ることができる。議員の裏切りを、マス・コミその他の宣伝や教育でごまかすこともできる。国民が裏切られて、自分たちを不幸におとしいれる政策をとられているにもかかわらず、宣伝や教育でごまかされて信頼しているような場合には、実は民主主義でも何でもないのである。議員が財閥から選挙費用を出してもらい、当選してから財閥の利益に奉仕する政策をとっているのは、前にものべたように民主主義ではなく金主主義である。

 日本が太平洋戦争をしていたとき、国民からえらばれた議員たちは、みなこの戦争を「聖戦」といって支持していた。東条内閣が戦争をすすめるための法案をつぎつぎと出してきても、反対する議員は一人もなく、全員賛成のもとに議会を通過した。そのころは、戦争はいやだなどと国民がいおうものなら、非国民だとされてすぐひっぱられ、刑務所へ入れられるような状態であったから、議員のなかにこんな戦争はやめなければならないと考える人間がいたとしても、議会でそれを正直にいうことはできなかった。

 戦争に負けて、日本がアメリカ軍に占領されると、アメリカは日本も民主主義でなければならないというので、民主主義ということばが流行したけれども、さてこの民主主義がわかったようなわからないようなものである。「むかしからあるよくないものが“封建的”で、これに反対することが“民主的”だ」と解釈した人もあれば、「民主主義というのは多数決で、賛成者の多い意見を採用し賛成者の少い意見をしりぞけることだ」と説明する人もあった。もし多数決が民主主義ならば、戦争中の日本の議会も民主主義で、日本人は民主政治のなかで生きていたといわなければならない。

 そのうちに、民主主義ということばは、私たちの生き方の上のことばとしてひろく使われるようになってきた。「あの人の考えかたは非常に民主的だ」とか、「そういう態度は非民主的だ」とか、私たちの考えかたや行動のありかたに民主主義ということばが使われている。これも多数決では説明できないことばであって、多数決そのものが民主主義ではなく、民主主義の多数決とそうでない多数決とを区別しなければいけないことを教えている。

生きかたの上での民主主義

 私たちの生きかたの上での民主主義は、まず第一に、自分中心の考えかたをしりぞけ、利己主義や個人主義に反対して、多くの人たちの利益・多くの人たちの幸福を、何よりも大切だと考える。

 いまの日本では工場や農村で毎日汗を流して働いている多くの働く人たちの利益や幸福を、何よりも大切だと考える態度がなければ、それは民主主義でも何でもない。岸信介や池田勇人を総裁にいただき、首相にした自民党が、民主主義的であるか否かは、働く人たちの利益や幸福を第一において政治をしているか否かできまるのであって、自由「民主」党という名前できまるのではない。多くの働く人たちにとって害になり不幸になるような政治をするならば、民主主義でもなんでもない。このときは、この民主主義でない政府をやめさせて、働く人たちの利益や幸福のために政治をする政府にとりかえることが、私たちの民主主義的な生きかたである。

 一七七六年のアメリカの独立宣言はいった。

 「すべての人が平等につくられていること、かれらは……譲るべからざる権利をあたえられていること、生命、自由および幸福をもとめることはこれらの権利に属すること、……どんなかたちの政府にせよ、その存在がこれらの目的をさまたげるようになるときは、人民はいつでもそれを変更また廃止し、かれらの安全と幸福を実現するという主義を基礎とする新しい政府を樹立し、かれらにとってもっともよくその目的にかなうとみとめられるかたちでその諸権力を組織する権利を持っていること」

 「安保反対」「岸を倒せ」「国会解散」とさけんで多くの国民が国会へ押しかけたことは、安全と幸福をおびやかす政府を廃止しようとする国民にとって譲ることのできない権利にもとづく行動であり、働く人たちの利益や幸福のための行動であった。これこそ民主主義的な行動であり、日本の民主主義をつくり出そうとする行動であった。ほとんど食事もしないで、二日も三日も国会のまわりの道路にすわりこむような、学生たちの行動も、利己主義や個人主義ではなくほんとうに多くの働く人たちの幸福のために役立ちたいという気もちから生れている。何万、何十万という人の波が夜の闇のなかを押しよせてきても、お祭に集ったりレコード歌手のうたを聞きに来たときのような、個人が楽しみたいという自己中心の行動ではないから、「××組合さん、どうぞおさきに」というかたちで自主的な統制が生れてきた。デモでは一人の負傷者も出なかった。負傷者はこの民主主義的な行動をつぶそうとする暴力団や警察官の攻撃によって生れたのである。

 生きかたの上での民主主義は、第二に、多くの働く人たちの利益や幸福のためにどれだけつくしているかで、人間のねうちをきめようとする。

 上の学校へ行ったか行かなかったか、年齢が上であるか下であるか、経験が多いか少いか、そんなことは人間のねうちと直接関係がないし、貴族の家に生れたとか部落民の子として生れたとかいう生れかたなどまったく問題にしない。町の小さな工場で旋盤のまえに油だらけになって働いている、中学しか出ていない青年と、りっぱな御殿の豪華なソフアに腰を下してテレビなどを楽しんでいる、学習院大学を卒業した皇太子と、人間としてどちらがねうちがあるか? いうまでもなく、私たちの生活に必要なものをつくって私たちにつくしている、働く青年のほうが人間としてすぐれているのである。この人間としてすぐれている青年が、働いても働いても生活が楽にならず、愛する女性と結婚して家庭をつくる金もなく、皇太子とまったく反対に貧しい生活をしなければならないというのは、民主主義ではない。このような青年たちこそ、幸福な家庭をつくる権利があると考え、そうなるように行動するのが民主主義である。民主主義は、この意味で人間の実力を重んずる。学歴や年齢や経験が上だからというので、能力ない・実力を持たない人間を重んずるのは、民主主義ではない。実力のある人間を多くの人たちのために働くことのできるような地位につけ、その能力を十分に役立たせる実力第一主義が民主主義である。

 生きかたの上での民主主義は、第三に、責任を重んじる。

 多くの働く人たちの利益や幸福のためにみんなが協力して活動するなかで、考えかたのまちがいや行動の失敗から、協力をさまたげたり多くの人たちに害や不幸をもたらしたりしたときには、自分からすすんで責任をとるのが民主主義である。年齢が上であるとか、活動の上で先輩であるとか、団体の規約には責任をとれと書いていないとかいう理由で、責任をとることをいやがるようでは、民主主義とはいえない。

軍隊における民主主義

 軍隊や、軍隊的なきびしい規律を持つ組織は、民主主義とはいえないのではないかという疑問を持つ人もあろう。「鉄の規律」というのは、上位の人間の命令に絶対服従することだと思っている人もあろう。アグネス・スメドレーは、『偉大なる道』のなかで、中国紅軍とよばれる民主主義的軍隊のありかたを、つぎのようにのべている。

 「紅軍が発展させたもっとも強力な教育方法であり、紅軍が成立して以来、一貫して実践してきたものの一つは、これまでの戦闘や作戦を分析する会議をひらくことであった。こういう会議には、朱徳将軍や毛沢東をふくめて、指揮官も兵士も全員が参加した。ここでは一切の階級はなくなり、みんなが自由にしゃべる権利を持っていた。戦闘や作戦の計画が討論されたり、またそれが必要だと考えられたときには、批判されたりした。だがそればかりでなく、指揮官であろうと兵士であろうと、その個人的行動も批判の対象にすることができたのである。もちろん、批判されたものは、その批判が正しくないと思うなら、それに対して弁明することができた。しかし、批判の正しいことが証明されたときには、批判されたものは、そのあとで、紅軍司令部から懲戒処分をうけたのである。

朱将軍は、このような会議を、きわめて重視していた。会議は、できうるかぎりの方法で、人々を進歩させたし、また紅軍を民主主義的にしてくれた。こういうやりかたによって、戦闘でその任務の遂行に失敗したものや、紅軍の民主主義的規律をおかしたものは、階級を下げられ、再教育されたし、また一方、すぐれた知恵や特別の勇気をしめしたものは、昇進した。同時に、ハッキリものをいうことのできなかった農民兵も、軍事や、政治、あるいは人間的諸問題について、自分の意見をのべることを学んだのである。また農民兵は、古い封建的軍閥軍とは反対に、民主主義的軍隊の性格を学び、慎重さと責任とを学び、人間として、また、革命軍の責任ある一員として、自己の価値を尊ぶことを学んだのである。」「こうした会議の結果は、パンフレットに発表されて全軍の研究の資料として用いられた。」

 中国紅軍は、中国の国民の利益と幸福をまもるために戦っている軍隊である。そして会議のときには、昨日までもっとも下等な人間として社会的にいやしめられてきた者でも、同じ目的のために協力する仲間として平等の権利が与えられ、実力が正しく認められ、責任を持つことを教えられ、人間の価値について自覚させられたのである。これこそが真の民主主義である。

出典

  • 三浦つとむ. “19 民主主義ということ”. 新しいものの見方考え方. 季節社, 1983, p.145-151. 1960年12月に青春出版社から刊行された『新しいものの見方考え方』の再刊.