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ハリウッド100年のアラブ

引用の範囲を超えることは承知の上で,あとがきを全文転載します.本書を通して与えられる視座が,著者の思いが,私が書く駄文よりもストレートに伝わると思うからです.本の内容を確認することは書店で実物の本に出会うと出来ることですが,インターネットを使った通販では出来ません.これを諒としていただき,ぜひ本書を実際に手に取って,より多くの方に読んでいただきたいと思います.

あとがき

どうしてこのテーマに興味を持ったのか? そう聞かれたら、すべては9・11から始まった、と答えるしかない。アラブや中東の専門家ではない私がこの本を書かざるをえなくなったのは、ひとえに9・11の衝撃、そして自分自身への深い反省があってのことである。詳しくいえば、アラブ世界のことをろくに知らない自分、アメリカ映画のアラブ描写にまったく無頓着だった自分に気づいたからだった。

思い出せば、二〇〇一年同時多発テロ後のアメリカ社会はなんとも異様だった。国民が愛国一色に傾く中、自国に批判的な意見はメディアからいっせいに姿を消し、戦争体制に入るやアフガニスタンやイラクの民間人の姿は同情を呼ぶとして映されず、アメリカ兵士の「奮闘」を讃えるニュースがあふれ、とアメリカのメディアの偏向ぶりも伝わってきた。私たちが目にした「傷ついたイラク市民」「破壊されたバグダッドの民家」の映像も、じつはアメリカ国内ではろくに放映されない、なぜならそのような映像を流せば視聴率が下るから、というメディアの露骨な規制も知らされた。戦時下の挙国一致体制とはまさにこのようなもの、という実態が私たちの前に突きつけられた感がある。

アメリカ・メディアの凋落を嘆く声も聞かれたが、戦時下にかぎらず、メディアが提示するのは常に「切り取った」後の現実でしかない。いかに客観的に見えようが、そのようにフレーミングした瞬間に存在する目がある。報道(カバー)したと同時に、隠蔽(カバー)されてしまうもの。エドワード・W・サイードは『カバーリング・イスラム』(Covering Islam 邦題『イスラム報道』)という絶妙な表現で、その関係性を示したものだった。アメリカのメディアがこれまでにイスラム世界やアラブをどのように報道(カバー)/隠蔽(カバー)してきたのか、という問いかけがあるとしたら、では、アメリカが世界に誇り続けてきた巨大メディア産業、ハリウッド映画の方ははたしてどうだったのか、という問いも浮上してくる。映画ではこれまでアラブ人をどのように描写してきたのだろうか……?

じつは9・11以降、私自身も「ハリウッド映画のアラブ人描写」について何度か質問されたことがあった。以前に出した本(『イエロー・フェイス−−ハリウッド映画にみるアジア人の肖像』朝日選書)があってのことだろうが、質問者の期待に反し、アラブ描写で私がとっさに思い出す映画作品は十指にも満たない、というふがいない有様だった。その後、アメリカで出版されたジャック・G・シャヒーンのReel Bad Arabsという大著を手にし、そこに挙げられた「なんらかのアラブ描写が出てくる」膨大な映画リストを目にして、私は愕然とすることになる。そこには十九世紀末のサイレント作から二〇〇〇年までの映画約九百作が列挙されていた。本をめくりながら、こんなにもあったのか、という驚きに、そういえばこの作品も、という発見が重なり、興味は尽きることがなかった。自分自身への反省もあり、とりあえず同書に挙げられた映画作品をビデオやDVDで観ることからリサーチを始めることにした。日本で入手できない何作かはアメリカからも取り寄せた。

アラブ描写を調べていくうちに、次に突きつけられたのが、アラブ/イスラム世界に関しての自分の無知だった。ぼんやり分っていたつもりでも、じつはよく知らなかった、ということのなんと多かったことか。言い訳めいたことをいえば、これぞまさしく平均的な日本人の姿、といったところだろうか。遅ればせながらアラブ/イスラムに関する勉強も始めたが、この世界は知れば知るほどに奥が深く、そのつどに新たな興奮があった。このハリウッド映画のここの意味はこれに通じるのか、という発見もあり、アメリカだけに目を向けていたら見えなかったことが立体的に立ち上がってきた。今まではアメリカ文化史に興味を向けてきた私だが、ここ数年はまったく違う異文化を<合わせ鏡>のようにして勉強するという幸福な時間をすごせた。これも一介の物書きゆえの気楽さだが、理解の足りない点も多々あると思われる。専門家からの厳しいご指摘をいただけたら幸いである。

一方、このテーマを論じるにあたっては、アメリカ人と私たち日本人のアラブ観やアラブ知識の違い、その宗教観や世界観の違いをどう考えるか、という問題も横たわっていた。ユダヤ・キリスト教の歴史と伝統に立つアメリカと、「無宗教」だと答える者が多い東アジアの日本では、宗教観ひとつとっても大きな違いがある。また、アラブ諸国との国際的関係を考えれば、対アラブ感情が日米で大きく異なるのは当然だ。これが過去に植民地支配体験を持つヨーロッパ各国なら、また違うアラブ観や歴史観を有しているだろう。さまざまな差異があることは認めつつ、ここではアメリカ映画を叩き台にし、西洋側のアラブ観を社会文化史的視点から探ってみることを目的とした。それが日本人のアラブ観とどこがどう重なり、どう異なっているのかはまた別の研究テーマになるが、日本の読者には行間から何かを感じとっていただけたら、と願っている。

本来ならばアラブ人かアメリカ人の映画研究者が書くべきテーマをなぜ日本人の私が書くのか、という点に関しては、前述したように私自身の反省という個人的理由が大きいのだが、もうひとつ、アメリカ人でもアラブ人でもユダヤ人でもない「非−当事者」からの見方があっても許されるのでは、という思いもある。政治的立場や対立関係がなにかと影響する当事国の人たちとは異なり、ある意味では「部外者」の私である。だから中立的立場で客観視できるのかといえばけっしてそうではないが、彼ら当事者にとっては説明するまでもないことも、日本人の私にとっては大きな驚きであることもあれば、ごく素朴な疑問が生まれることもある。日本がアメリカの強い支配下と影響下にあることはまぎれもない事実だが、地理的にはアメリカともアラブ世界ともほぼ等距離にいる私たちである。それこそイスラム教の祈りのように、アメリカに向いて「あなたの上に平安を」、アラブに向いて「あなたの上にも平安を」と、等しく祈りたい気持ちが日本人の私にはある。

書き終わった今、けっきょく触れることができなかった作品があれこれ思い浮かんでくる。『知りすぎていた男』『モロッコ慕情』『砂漠の花園』などのアラブ世界、『マルコムX』のブラック・ムスリムとアラブの接点、ロベルト・ベニーニが「カギ鼻」のアラブ人に化けた『ピンクパンサーの息子』、ユダヤ系のダスティン・ホフマンがベドウィンに化けた『イシュタール』、軍隊ものでは『G.I.ジェーン』や『英雄の条件』……。抜け落ちてしまった作品はまたの機会に触れたい。ただし、映画を追って検証した目的は、あれもこれもと作品を並べ立てることや、これは良い、あれは悪いと選(よ)り分けることではけっしてなかったことはここで改めて強調しておきたい。実際、取り上げたハリウッド映画に対してはかなり批判的な見方をしたかもしれないが、けっきょく私の興味は、アメリカがアラブ世界に抱いてきたさまざまな感情の揺れ動きの方にある。それは百年間の映画史を眺め渡してようやく見えてきた流れだった。

このテーマに関してさまざまなアドバイスを与えてくれた友人たちに深く感謝したい。文化人類学者である親友のシャーマン・バビオーからは関係資料の情報をもらった。ユダヤ系アメリカ人の彼女はアフリカやインドなど在外研究の体験が豊富で、アラブ文化に関しても造詣が深い。彼女に分るよう、ささやかな謝意をここに記しておきたい。A thousand flowers to you, Sharman!

アメリカ文学専門の慶応義塾大学の巽孝之教授、宇沢美子助教授からは常に温かい励ましをいただき、それぞれのご著書や論文にも大いに刺激を受けた。そういえば、本書ではマーク・トウェインの聖地巡礼記に触れられなかったのが心残りだ。

9・11の翌年にワシントン支局長としてアメリカに赴任したTBS報道局の金平茂紀氏からは、電話やメールでのやりとりを通じ、当時のアメリカの生々しい空気を伝えていただいた。日本の「自己責任論」への怒りと情けなさから、暑く盛り上がったあの頃の会話を思い出す。

また、アメリカ演劇専門の一ノ瀬和夫立教大学教授には、「悶々」と「興奮」が交差した私の話に何度も付き合っていただいた。一ノ瀬氏からはヘブライ語版のアメリカ映画『テヴィエ』の貴重なビデオをお借りしたほか、ミュージカル『オクラホマー』に出てくるペルシャ人ハキムの像は何を意味するのか、という宿題をもらっているが、まだ答えることができないでいる。

この数年、アラブ表象のテーマで付き合ってくれた東京大学大学院情報学環及び慶応義塾大学の学生の皆さんにもお礼を言っておきたい。一部の学生には「在日アラブ人もしくはムスリムにビデオ・インタビュー」という課題にも挑戦してもらった。この映像作品はじつに面白い結果となり、「サンタクロースは今のトルコ生れ」「ラマダン(断食月)の期間中に三キロ太ってしまった(日没後は食べていいため)」「〈天空の城・ラピュタ〉のモデルはシリアにある遺跡」など、各国出身の人たちから興味深い証言をとってきてくれた。

最後になったが、前著『イエロー・フェイス』の担当で、今回も選書出版の機会を与えてくださった朝日新聞社書籍編集部の柴野治郎氏にお礼を申し上げたい。本書の原稿の一部を発表する機会を与えてくださった『論座』編集部にもお礼申し上げる。また、担当編集者の赤岩なほみさんからは最初の読者として貴重なアドバイスを頂戴し、そのおかげでいろいろな箇所を手直しすることができた。大原智子さんには、映画公開タイトルや引用箇所のチェック、フィルモグラフィー作成など煩雑な作業も担当していただいた。厳しい目でチェックしてくださった編集部のみなさんに深く感謝申し上げたい。なお、本書のすべての文責が著者にあることはいうまでもない。
二〇〇七年一月
村上由見子

はい.読みたくなったでしょ? ぜひ読んでみてください.

出典

  • 村上由見子. “あとがき”. ハリウッド100年のアラブ: 魔法のランプからテロリストまで. 朝日新聞社, 2007, p.349-354, (朝日選書, 815).
  • 現在,絶版になっているそうです.古書で探してください.
    日本の古本屋

あとがき中に出てきた書籍

  • エドワード・W・サイード. イスラム報道. 浅井信雄, 佐藤成文訳. みすず書房, 1996.
  • エドワード・W・サイード. イスラム報道: 増補版. 浅井信雄, 佐藤成文, 岡真理訳. みすず書房, 2003, 300p. 原著刊行16年後に出た新版に著者が寄せた50頁を超える序文を加えた増補版である。.
  • Edward Wadie Said. Covering Islam: How the media and the experts determine how we see the rest of the world. Pantheon Books, 1981.
  • Edward Wadie Said. Covering Islam: How the media and the experts determine how we see the rest of the world, revised and updated edition. Random House, 1997, (Vintage Books).
  • 村上由見子. イエロー・フェイス: ハリウッド映画にみるアジア人の肖像. 朝日新聞社, 1993, 352p., (朝日選書, 469).
  • Jack G. Shaheen. Reel Bad Arabs: How Hollywood Vilifies a People. Olive Branch Press, 2001.