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岡部伊都子「いのちの舞台」:(1)

1985年村岡町町民大学講演記録
いのちの舞台
岡部伊都子

昨晩は京都でもひどく雨が降りました.綾部の駅ぐらいからしぐれて参りましたが,初めて降り立つこの村岡の町の美しいこと,道端をのぞいて見ますと,底のほうに掌で触りたいような小さな田がたくさんございました.細いところに田がございました.それは昔の私どもの,何か遠い美学の底に沈んでいるような,そんな田の景色でございます.

私はきょう村岡町の皆さまに聴いていただく話を「いのちの舞台」という題にしていただきました.地球の上にたくさんの人がいて,それぞれご自分の立つ場を持っていらっしゃる.素晴らしい土地もたくさんある.けれども私きょう村岡町へ来て,「村岡町のこの素晴らしさを村岡町にいらっしゃる方がどの程度深く認識していらっしゃるだろうかなあ.とそういうふうに思いました.

私は大阪の生まれで,大阪であの空襲に遭って,そして婚約した相手を,その人は,「この戦争は反対だ.」そう言いましたのに,私はその頃そんな考え方を聞いたことがなかったもんですから,「ああ私やったら喜んで死ぬ.」言うて追いだしたんですね.旗を持って追いだしたその相手は沖縄で亡くなってしまいました.「この戦争は間違いや.」「こんな戦争で死にたくない.」そう言うた人は死んで,旗を振って追い出した私はえんえんと生きているという,生きているということは無残なことやなあと思いますが,どうして私は好きな人がいややと言うことを,一緒に悲しまなかったのかなあと思います.その事だけが敗戦後の私の目を醒めさせてくれた一つの事ではなかったか,その人が死んだ後でしか私はその人の心に近づけなかった,そのように少しずつ少しずつ考えてきて,そしてひとの,その人ではない男の嫁さんになって,七年間暮らして,結局岡部が破産したおかげで,もう役に立たないということで帰してもらいました.けれども,もしまだ婚家に居りましたら体裁のいい女房としてまだその役目を相務めていたかもわかりません.それを思うと何だかゾッとしてくるんです.私が心にもない生き方をしてしまったということの自業自得の自分の再出発でございましたが,“いのち”というものがどんなに得難いものであるかというものを敗戦前の私どもは学んだことがありません.“いのち”というものは捨てるためにありました.小さい時からそういう教育で鍛えられてきました.自分の“いのち”は自分のもんやなかったんです.いつでも喜んで差し上げなければならない場合があり過ぎたんです.私はたまたま呼吸器の病気をしまして転々と転地療養いたしましたが,こういう折りだけにその時も何か後ろめたかったですね.みないのちをかけて戦うたはる時に,生き延びるために転地療養するいうことが大変後ろめたかった.何とか死なんならん人の代わりに死ぬことができたらなあ,なんて思いました.

けれどもどう願っても人の代わりになれるいのちはないんです.その人はその人の持って生まれたいのちを生きねばならない.どんなに生きていたくてもいつかは必ず消えて行く日がございます.お互いに後になり先になりして,いつかはみんないなくなってしまう.その時には次の世代,その次の世代,皆さん生まれて来てくださっているはずです.

でも私は,あの原爆が落とされた瞬間から,それは原爆ということを知らず,ましてその恐ろしさは勿論知らず,そういうものがこの世に存在しそして使われた,というように何重もの恐ろしさをいまも思うんですけれども,もう我々人間が破壊の時期に来ているということは,こんな美しい町にお暮らしの皆さん方でもおそらく日々刻々心にも身にも迫ってお感じになっていることではないかと思いますが,そういう破壊,崩壊の地球の中にいるという,そしてそこから外へは出られへんという,そういう所で僅かな“いのち”を今頂いて,今呼吸させてもらっているということの不思議さをとても大事に思うものです.大変不思議です.この存在というものが本当に不思議で不思議でしかたがない.当たり前とはちっとも思われない.で,舞台というと何か特別に晴れがましい,普通の床よりは一段高い所にしつらえられている,そういうものが舞台だと心の中では思っているんですけれども,もうこの生存の時期の切られているような今日におきましては,日々刻々自分が生きているその地域,自分が生きているこの足もとの“お土”,それがいのちの舞台であるという観点でもう一度足もとのお土をいとしみたい,そこからしか地球を眺めることはできない,そう思うんです.

私は日常茶飯事が大好きです.小さい時からままごと好きやったからお料理するのも好きやし,着物縫うのも好きやったし,お客さんが大好きです.だけどもそういう普通当り前とされている日常茶飯事なんかはまあちょっと横においといて,何かええことないやろか,もっと晴れがましいことないやろか,もっと光の当たることないやろか,もっと幸せになることないやろか,きらびやかなフットライトの当たることばかり願ってこれまで生きてきたんではないか.そういうことにふと気が付くと,教育も政治も,私は教育ほど大きな政治はないように思いますけれど,何かこの中央に出て晴れがましい舞台に立って,どういう舞台であるにせよ,人目を浴びる,やんややんやの喝采を受ける,そういうことが人間の出世のように,人間としてええ人間であるかのように錯覚されてきた時代が永く続いていたように思います.

だけど本当にそれが人間の尊厳やろか,私はもう今,この時期において,その自分を疑う,自分の価値観を疑うというところから出発して,やり過ぎたことをひっくり返し,今までやり足らなかったこと,つまり人間にとって最も大事ないのちの存在を守って行く方に方針を変えないと,本当にみすみすすべてが破壊されて行くような気がして恐ろしくてしようがないんです.例えば私は門徒の家に生まれて,信念としてはありませんでしたけれども小さい時からお浄土とよう言われて来ました.母なんかはお浄土へ参ることだけが望みのようでしたね.とにかく“南無阿弥陀仏”言うて阿弥陀さんを信じて,親鸞さんのおっしゃることを信じてたらこの世の悲しみは消えてええとこ行けると思うておりました.お浄土という言葉は今でも全ゆるところに息づいていると思いますけれど,極楽世界の『往生要集』とか,いろんな絵図を見ますといろいろな地獄が描いてあります.極楽も描いてあります.極楽いうたらどんな図かというと小鳥が飛んで,きれいな水の池にきれいな花がいっぱい咲いている.そんなん今でも村岡にはいっぱいある風景です.京都はもう空気が汚のうなってしまいましたが,それでも千年の都でございますから,二十年前に私が住んだ時は思いました.「なんと京都の自然は美しいんやろ.」日本の四季春夏秋冬,その美感覚というのがある訳ですね.我々は学校の教科書で日本の美というのは雪月花とか春夏秋冬の中でも「春はあけぼの」というような古典文学や,その他いろんなものでどんなに日本という国が美しい四季を味わうことのできる風土であるかを学びました.私は大阪で三十年,神戸で十年,転々流浪して,京都へ二十一年前に住まわせてもらうようになったものですが,その頃ちょうど双(ならび)が岡の西の方に住まいを持ちまして,朝の初日の出も夕方のお月さんもみなそうですけど双が岡の山の方をふっと明るくして,そこから月が,太陽が出て,ずっと西の嵐山の方に落ちて行く.確かに春は春で桜が美しい.夏は夏でむせぶような緑が美しい.また,風によって秋を感じるという歌があるように,微妙に季節の移り変わりが美しい.冬は冬で雪が降るともう諸国からみなさんカメラを持って今でも雪の京を写しにおいでになるぐらい景色になる.とにかく京というところに住んでいて思うんですけれども,どこ見ても風景が絵になるんです.気持ちが悪いぐらい絵になるんです.そこで,そこに住んでいる人達は皆そこがええと思いはる.我々が日本文学やと思っていたものは京文学であったということが言えると思うんですけど,そういうものによって培われてきたものは,ふと気がつきますと,日本というこの細長い列島は亜寒帯から亜熱帯まで全部含まれておりまして,特にこの背骨のような山脈によって表と裏とに分けられてしまう,その土地土地によって実に多様な気象条件もあれば,お土の……お土の土質とでも言うんでしょうか,お土の持ち味が違います.

このようにおびただしい違いがあるにも拘わらず,これが日本の四季だよ,これが大事にすべき美感覚だよっていう形で京都のものを押しつけてきた,そういう不幸はなかっただろうか,そういう地域差別はなかっただろうか,いたずらに劣等感を植えつけるような失礼なことはなかっただろうか.そういうことを思う時がございますね.私たちはとかく本当のものを見ないで,自分のお土がどういう風土で,どういうお味で,どういうものを喜ぶ質を持っているかを大事に尊敬して付き合わないで,どっかに美しいものがあるのではないか,どっかにしあわせがあるのではないかと,憧れの目ばかりで,持っている力を見ないで,持っている宝も見ないで,持っているしあわせもふり捨てて,流浪した昔が長かったような気がします.

ここでそうしたことの例としてとても適切な作品をひとつご紹介したいと思います.北海道の旭川に三浦綾子さんという,皆さまもよくご存じの小説家が居られます.三浦さんは大変心の美しい,やさしいお方でいらっしゃいまして,私の方へも一度おいでくださって,「ちょっと手が握りたかったのよ.」なんて言って,私ああいう美しい目で自分を見られたことがないので,ゾクゾクとするような思いがいたしましたけど,その三浦さんがお書きになったたあくさんの小説のなかの一つ『泥流地帯』泥の流れの地帯というのがございましてね,それは十勝岳の噴火で泥流が溢れて,それが田畑を流して,そこで働いていた人達も捲きこんで殺していく,そんな筋なんですけれども,その火山から噴き出た泥流は田畑をもう農耕に適さないお土にしてしまうんです.でも生き残った人々は細々とそれを除けて,再び作物のできるお土にしようと努力する.そういう非常に感動的な小説なんですけど,その中に一人の少年が登場します。その少年は,何かドドッと恐ろしい物音に気づき,裏山に駆け上って何事が起ったのかと見ているうちに,目の前の家は泥流に流され,家族も家と運命を共にし,かろうじてお兄さんも助かって二人だけ生き残ったんです。でその少年はお兄さんと二人で一生懸命荒れたお土を守って行こうと生きて行きますが,それまでは貧しくて学校へも行けなかったのを,頭がいいので学校に行かせてもらえるようになって,後々小学校の先生になるんです.初めて受持ったのは六年生でしたかね.私も小学生のころのことをふり返りますと,私の先生も「きのうあったことを書いてごらん」とおっしゃって,生徒ひとりひとりの置かれている環境だの考えだの生活の様子なんかを見ようとなすったことがありますが,もとにもどってその少年……田・畑を耕作するという意味からその少年の名前を耕作と,大変意味深く綾子先生は使っていらっしゃいましたけど,その耕作先生は初めて受け持った小さな子どもたちに「春について書いてごらん」と言います.ある優等生の書いた作文を読んで耕作先生はびっくりするんですね.こんな春があるはずがない.その春は,これが春やでと教えられた春,教科書なり何なりで春の小川はサラサラと流れるという,そしてあちこちに花が咲いて小鳥が鳴いてという,今のお浄土か極楽みたいな春なんですね.

(つづく)