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三浦つとむ『認識と言語の理論』書影

認識と言語の理論

確認したいことがあって,三浦つとむの『認識と言語の理論』を引っ張り出そうとしたのですが,例によって整理されていない本の山から見つけられず,また例によって再購入してしまいました.苦笑

昨晩,届いたばかりの本を寝床で開いて,やっぱり三浦つとむは凄いなと感動しました.寝ては目が覚めて続きを読み,寝ては目が覚めて続きを読みの繰り返し,大変興奮しているようです.笑

“サイレント時代のチャップリン映画は、非常に単純でしかも複雑な意味を持つタイトルを使っていた。サウンド版の『街の灯』でも、盲目の花売娘が目をなおしてくれた恩人にめぐり合い、あまりにもみすぼらしいことの驚きとこの人だったかというよろこびを、“You!”の一語で表現していた。日本語版の翻訳者三人がどう訳したらいいかと二時間も考えこんでしまい、あとでそれをチャップリンに話すと、「君たちもそうだったのか」と微笑したという。この作品は六カ国語版をつくったから、前にも似たことがあったとみえる。この種の事実にぶつかったとき、同じ単語が使いかたで複雑な意味になるとは奇妙なものだとここで思惟をストップするか、かたちはちがうが似た問題は絵画や映画でも起るから表現形式と表現内容は相対的に独立していると一般化してとらえるかに、学問としての別れ道があろう。ことばには「霊魂」があるとか文章には精神がこもっているとか、昔から言語表現は物神崇拝されて来た。そんなことは古くさい迷信だと嘲笑してここで思惟をストップするか、商品特に貨幣商品に対してもやはり昔から物神崇拝がなされている事実を見のがさず、かたちはちがうが労働生産物の価値と言語の意味とは論理的に共通していると一般化してとらえるかに、学問としての別れ道があろう。現象面で思惟をストップさせて、言語表現の過程的構造へ自力でふみこんでいこうとしない人びとだけが、言語をできあがったものとして固定化してとらえ、与えられた道具を使うのだというような現象的な解釈に安住できるのである。小説に挿画を入れるとか、映画やテレビに解説がつくとか、言語と他の表現とが共存している例は多い。これらをつきつめて検討していけば、表現一般のありかたにぶつからずにはすまないし、また言語と他の表現との同一性および差別を考えずにはすまないのである。” (三浦つとむ. “まえがき”. 認識と言語の理論: 第一部. 勁草書房, 1967, p.5-6.)

“科学の確立は、それまで哲学の名でよばれていた解釈学を克服し精算してしまう。自然科学の確立は、自然哲学を片づけてしまった。経済学の確立は、経済哲学を片づけてしまった。いまだに哲学と名のるものがくっついてまわっているような分野があるとすれば、それは科学を名のっていてもまだ真に科学の名に値しないことを暗示しているといっていい。法律学には法哲学なるものが、言語学には言語哲学なるものがそれぞれくっついてまわっているばかりでなく、法律学者あるいは言語学者も、この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて、いわば下駄を預けている状態にある。しかも、それではいけないのだという反省さえ見られないのである。では、この哲学に下駄を預けている問題はどんな問題かというと、それは精神活動(原文では精神活動は傍点で強調)に関する問題である。法律は国家の意志という特殊な認識として成立する。言語は話し手や書き手の頭の中にまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字を創造する活動がはじまるのである。法律学あるいは言語学が、いまだに哲学と名のるものによりかからなければならないのは、認識についての科学的な理論を持たないためであって、この理論を持つことによって真に科学の名に値するものになるであろう。それゆえ、本書はまず言語学にとって必要な認識論を述べてから、言語についての理論に入っていくことにする。”(三浦つとむ. “第一章 認識論と矛盾論”. 認識と言語の理論: 第一部. 勁草書房, 1967, p.3-3.)

『認識と言語の理論』は3部作であり,製本がしっかりとした新装版が勁草書房から出ています(第三部は流通在庫のみ).

  1. 三浦つとむ. 認識と言語の理論: 第一部. 勁草書房, 2002, 312p. 新装版.ISBN978-4-326-10012-5.
  2. 三浦つとむ. 認識と言語の理論: 第二部. 勁草書房, 2002, 336p. 新装版.ISBN 978-4-326-10013-2.
  3. 三浦つとむ. 認識と言語の理論: 第三部. 勁草書房, 2002, 328p. 新装版.ISBN 978-4-326-10014-9.